福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所
前回に続き、今回は島津吉貴公と月桂院殿の墓所を巡ります。
☆久光公の墓所から左手階段を上り左側には島津斉興公と由羅様の墓所。その前に、、
反対側の、階段の右手に進むと、、
☆第21代・島津吉貴公の墓所があります♪
☆下にある画像の左から「吉貴女子(娘)」「重豪後夫人」「吉貴後夫人」。案内図では吉貴公のすぐ下、「吉貴後夫人」とあるのが月桂院の墓
☆その前に見える石碑、土台に亀がいます。
さらに進むと、緑の植え込みの向こうに、、
☆第21代・島津吉貴公のお墓♪ 法名は浄国院殿
☆吉貴公は、第22代・島津継豊の実父
・ざっと遡ると、
継豊→吉貴→綱貴→綱久(綱貴実父で19代・光久の長男)→光久→家久→島津義弘
☆継豊様は元禄十四年(1701年)十二月二十二日に江戸高輪藩邸で生まれますが、父・吉貴様は鹿児島鶴丸城に出生。延宝三年(1675年)九月十七日生まれ
☆継豊を生んだのが、月桂院、即ち名越恒渡(なごや つねただ)の妹、須磨です。
☆先程の亀の石碑の背面に「太子 継豊公 御實母 …云々」と書かれています。
☆須磨様の実家は江戸高輪で豆腐屋を営んでいたそうです→
『月桂院とは』
☆吉貴公に関連する記事一覧→
https://blog.goo.ne.jp/yuki_bins35/c/ccd6a2ee6f842a28c48c217689549bd9
・墓地案内図の第23代・宗信様の上部、夫人の墓の真ん中に「吉貴夫人」とあるのは、おそらく前(さき)の夫人・霊竜院殿(=桑名藩主 松平越中守 定重の女子。福姫)か?(『島津歴代略記』参考)
☆この地図よくよく見ると、上部にある「吉貴実母」に目が止まったので『島津歴代略記』で確認すると、
島津吉貴=綱貴長男。母は二階堂十郎左衛門宣行の女子。お重。蘭室院殿。
とありました。参考までに。
☆第23代藩主・島津宗信様は継豊様の長男。
母は渋谷喜左衛門貫臣の女子。お嘉久。妙心院殿。
宗信は、先に将軍吉宗の意向によって尾張藩徳川宗勝卿の姫君を夫人に迎える事になっていたが、寛延元年(1748年)姫君の逝去により、翌二年(1749年)その妹君を勧められこれを承諾。しかし宗信はその年病にかかり、七月十日、鹿児島鶴丸城に亡くなります。歳二十二でした。法名は慈徳院殿。
広く士民から「名君の器」と待望され、慕い敬われていたといいます。(以上、島津顕彰会発行『島津歴代略記』より)
☆第23代・島津宗信に関連した読み物を「鹿児島県歴史資料センター黎明館」のHPから、PDFで読む事が出来ます。→『「古の遺愛」小考』
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