2018年05月19日
福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓
☆前回の『福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所』末尾に「続きを読む」と表示されてるの、おわかりでしたでしょうか??
ちょっと分かりにくいと思い、別記事として、新たな画像を入れつつ、書く事にします。
※このブログの[追記]という機能を使ってみたのだけど、上手に使いこなせない。。
さて、福昌寺墓地、第3弾です。(画像は一部を除き2017年6月4日撮影)
☆第23代藩主・島津宗信様は22代・継豊様の長男。
母は渋谷喜左衛門貫臣の女子。お嘉久。妙心院殿。
宗信は、先に将軍吉宗の意向によって尾張藩徳川宗勝卿の姫君を夫人に迎える事になっていたが、寛延元年(1748年)姫君の逝去により、翌二年(1749年)その妹君を勧められこれを承諾。しかし宗信はその年病にかかり、七月十日、鹿児島鶴丸城に亡くなります。歳二十二でした。法名は慈徳院殿。
広く士民から「名君の器」と待望され、慕い敬われていたといいます。
(以上、島津顕彰会発行『島津歴代略記』より)
☆第23代・島津宗信に関連した読み物を「鹿児島県歴史資料センター黎明館」のHPから、PDFで読む事が出来ます。→『「古の遺愛」小考』
で、23代・宗信様のお墓は案内図の左中程にありますが、

今回写真を整理する中で、「妙心院」と刻まれた石碑を見つけました!宗信の実母です。

果たして、これが石碑なのか墓石なのか、またどこにあったものを撮ったのかは覚えていないし、その後確認に行っていないのでハッキリしません。
ただ、現地の案内図と、手許の『島津歴代略記』p.199の「長谷場御墓(福昌寺跡)略図』等を照合してみて、写真を検証し、分かった事もありました。
☆以下に並べてみます。
☆「21代・吉貴」のすぐ隣に吉貴公と同じくらい立派なお墓があります。
回り込んで後ろから撮影

☆「継豊 夫人」の墓です。但しこれは、よく知られている「竹姫」ではありません。

☆「21代・吉貴」の墓の向かって右奥に「竹姫」の墓はあります
※画像、右奥階段の上に竹姫の墓 (この1枚は2008年2月29日撮影)


☆したがって、「21代・吉貴」の隣の「継豊夫人」は宗信様の実母・妙心院殿だと思われます。
☆追記:(2022年7月5日 21:29記)
これについては間違いで、これは「瑞仙院殿」の墓のようです。
「妙心院殿」の墓は墓所の奥、「竹姫」の墓の更に奥に「継豊後夫人(宗信実母)」と福昌寺墓地案内図に表記があることを確認いたしましたので元記事はそのままに棒線にて訂正いたしました。また、「継豊後夫人」の墓はもう1基、重年公の墓の近くにあることも確認しております。こちらは福昌寺墓地案内図には「重年実母」とあるので「嶺松院殿」のようです。
また、継豊夫人の立派な墓のすぐ隣に少し小さめの墓石と石塔があります。
☆「吉貴 後夫人」の墓で、その後ろにある階段を昇ると宗信の墓があります。

↑この隣の石囲いの向こうも覗いてみました。
☆右から:虎寿丸・菊三郎(共に斉彬男子)、斉興夫人(弥姫。周子。賢章院殿)、右には「22代・継豊」の墓

第22代・継豊の墓

その周辺もご案内しましょう。
福昌寺墓地 案内図です。

☆第18代・家久(左奥)、第19代・光久夫婦(中央2基)、第20代・綱貴(右奥)

☆第18代・家久の手前にある、島津綱久(右:第19代・光久の長男で、第20代・綱貴の実父)と、その夫人・真修院殿(松山藩主 久松隠岐守定頼の女子。綱貴実母)

まだ続きますが、今回はこの辺で。
ちょっと分かりにくいと思い、別記事として、新たな画像を入れつつ、書く事にします。
※このブログの[追記]という機能を使ってみたのだけど、上手に使いこなせない。。
さて、福昌寺墓地、第3弾です。(画像は一部を除き2017年6月4日撮影)
☆第23代藩主・島津宗信様は22代・継豊様の長男。
母は渋谷喜左衛門貫臣の女子。お嘉久。妙心院殿。
宗信は、先に将軍吉宗の意向によって尾張藩徳川宗勝卿の姫君を夫人に迎える事になっていたが、寛延元年(1748年)姫君の逝去により、翌二年(1749年)その妹君を勧められこれを承諾。しかし宗信はその年病にかかり、七月十日、鹿児島鶴丸城に亡くなります。歳二十二でした。法名は慈徳院殿。
広く士民から「名君の器」と待望され、慕い敬われていたといいます。
(以上、島津顕彰会発行『島津歴代略記』より)
☆第23代・島津宗信に関連した読み物を「鹿児島県歴史資料センター黎明館」のHPから、PDFで読む事が出来ます。→『「古の遺愛」小考』
で、23代・宗信様のお墓は案内図の左中程にありますが、
今回写真を整理する中で、「妙心院」と刻まれた石碑を見つけました!宗信の実母です。
果たして、これが石碑なのか墓石なのか、またどこにあったものを撮ったのかは覚えていないし、その後確認に行っていないのでハッキリしません。
ただ、現地の案内図と、手許の『島津歴代略記』p.199の「長谷場御墓(福昌寺跡)略図』等を照合してみて、写真を検証し、分かった事もありました。
☆以下に並べてみます。
☆「21代・吉貴」のすぐ隣に吉貴公と同じくらい立派なお墓があります。
回り込んで後ろから撮影
☆「継豊 夫人」の墓です。但しこれは、よく知られている「竹姫」ではありません。
☆「21代・吉貴」の墓の向かって右奥に「竹姫」の墓はあります
※画像、右奥階段の上に竹姫の墓 (この1枚は2008年2月29日撮影)
☆追記:(2022年7月5日 21:29記)

「妙心院殿」の墓は墓所の奥、「竹姫」の墓の更に奥に「継豊後夫人(宗信実母)」と福昌寺墓地案内図に表記があることを確認いたしましたので元記事はそのままに棒線にて訂正いたしました。また、「継豊後夫人」の墓はもう1基、重年公の墓の近くにあることも確認しております。こちらは福昌寺墓地案内図には「重年実母」とあるので「嶺松院殿」のようです。
また、継豊夫人の立派な墓のすぐ隣に少し小さめの墓石と石塔があります。
☆「吉貴 後夫人」の墓で、その後ろにある階段を昇ると宗信の墓があります。
↑この隣の石囲いの向こうも覗いてみました。
☆右から:虎寿丸・菊三郎(共に斉彬男子)、斉興夫人(弥姫。周子。賢章院殿)、右には「22代・継豊」の墓
第22代・継豊の墓
その周辺もご案内しましょう。
福昌寺墓地 案内図です。
☆第18代・家久(左奥)、第19代・光久夫婦(中央2基)、第20代・綱貴(右奥)
☆第18代・家久の手前にある、島津綱久(右:第19代・光久の長男で、第20代・綱貴の実父)と、その夫人・真修院殿(松山藩主 久松隠岐守定頼の女子。綱貴実母)
まだ続きますが、今回はこの辺で。
皇徳寺跡へ再び!からの〜白山神社!!
福昌寺墓地(4)鍋保丸(島津綱貴男子)、重豪夫人などの墓所
福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所
福昌寺墓地(1)国父・島津久光公の墓所
照国神社・探勝園を歩く
清水中学校界隈(大乗院跡)と春日神社
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